« 12月「博友会」開催のご案内 | トップページ | 【2月「博友会」】のご案内 »

2014年12月12日 (金)

初めての野分祭のこと

「野分祭」の意義を再考する
 
『伝統と革新』というオピニオン誌(株式会社たちばな出版、季刊・四宮正貴編集長)で半世紀にわたる拙い民族運動史を綴っている。現在発売中の第17号では「野分祭」を斎行するようになった経緯について紹介している。次号がまだ出ていないので、全文を紹介するわけにはいかないが、第一回の野分祭(昭和48年)の模様と、この御祭りに格段のご指導を頂いていた中村武彦先生の祭文(昭和50年度)を紹介し、改めて野分祭の意義について再考してみたい。
 
Picture
 
「三島精神の継承を誓う 厳かに野分祭」(「やまと新聞」S48・11・27付)
 
事件から丸三年(昭和48年)、初めての野分祭が前年と同じ渋谷の神社本庁講堂で行われた。この日は期せずして同憂友好団体の「起ち上がる神道人の会」(森田文憲代表)が中心になって「第六十回式年遷宮奉祝式典」が虎ノ門の「船舶振興ビル」で行われた。記念講演は中村武彦先生。先生には昼夜に渡り厳粛な祭典をご指導願ったことが印象深い。
資料を残すことが不得手な筆者の手許に赤茶けた「やまと新聞」(S48・11・27付け)の記事が残っているのも珍しい、「三島精神の継承を誓う 厳かに野分祭」というタイトル。
三島由紀夫・森田必勝両氏の遺志を継承しよう――との旗の下に、元楯の会隊員、民族派団体会員、右翼ジャーナリストの連絡組織「一水会」などが中心となって両烈士の追悼慰霊祭が行われた、とリードにある。
 
――昨年十一月二十四日、同憂の青年学生が集まり「三島・森田両烈士追悼慰霊祭」を催し、決起前日の両烈士の想いを偲び祖国日本の国体の真姿回復のために、改憲を訴えた両烈士の遺志を継承することを誓い合ったが、その後、総選挙での日共の異常な進出、田中首相の無策からきたインフレ、長沼ナイキ訴訟の自衛隊違憲判決などが導火線となり、既成民族派団体、運動に飽き足らない青年・学生によって「憲法を考える市民会議」が結成された。
そして、戦後体制のゆがみ、ひずみは現行の占領憲法に由来するとして改憲を要求するビラ数種類を各五万枚ずつ防衛庁、自衛隊市ヶ谷駐屯地、国会前、都内主要駅で配布するとともに、「今にして国の大本を正し黒白を弁じなければ、日本をして日本たらしめている本質的なものまでが浸食、風化されてしまう」との考えから、三島・森田両烈士の壮烈な義挙を正しく継承しなければならないと、追悼慰霊祭が開かれたもの。
この野分祭とは森田氏の辞世の句「今日にかけてかねて誓ひしわが胸の 思ひを知るは野分のみかは」から取ったもの。
追悼慰霊祭は二十四日午後六時から神式で始められ、三島氏直筆の「至誠」と書かれた大掛軸を正面に、三島・森田両烈士の遺影に菊の花が飾られた祭壇の前で、まず武人が戦場にあって執り行う「祓いの剣」を菊水武道師範・稲葉稔氏が招魂とともに行った。
続いて祭主の中村武彦氏が祭詞を奏上したが、その切々たる至上溢れる祭文に、出席者全員三年前の壮烈な両烈士の義挙を想い起し、万感きわまり、中には目頭を思わず抑える光景も見られるほどであった。
出席者を代表して犬塚博英氏が「国体の真姿回復のため改憲を訴え、天皇陛下万歳の最期の絶叫を残して自らの命を絶った両烈士の行動は、三年間の時の流れを越えて痛切に我々の胸に響いてまいります。しかし悲しいかなこの三年間の歳月の流れは両烈士の生命を賭した絶叫をも砂漠に染み入る一滴の清水の如く飲み込んで、ひたすら亡国への路を突き進んでいる有様です。今にして国の大本を正さねば日本は滅びてしまいます。この時に当たり、三島氏の高名に隠れ、ともすれば忘れられがちな森田大兄の生き死にこそ、維新者の正しき道統、範として仰慕、継承すべきと信じます」という趣旨の誓願を奏上した。
その後、笹井宏次郎氏の檄文朗読、辞世の句吟詠を以て閉会となり、引き続いて三島・森田両烈士の遺志を如何に継承し成就するかについて討議が行われた。一部のマスコミに同祭開催が報道され、テレビ局や朝日新聞などが取材に来たが、事情を説明し帰ってもらったという。――(引用終り)。
 
祭壇正面に飾った「至誠」の大掛軸は、三島由紀夫原作・監督・主演の映画『憂国』の青年将校切腹の場面に飾られていた三島氏の直筆。撮影を担当した渡辺公夫が譲り受けた。渡辺は当時民族派青年学生の溜り場になっていた西武新宿駅前の居酒屋「勇舟」(亭主・高橋尚樹)と同じ地下一階に「潜水艦」という軍歌酒場を経営、多くの民族派が「勇舟」と「潜水艦」を行き来していた。渡辺監督に懇請して一日限りという約束で、秘蔵の掛軸を借り受けてきた。
 
中村武彦先生「野分祭」祭文(昭和50年度)
 
昭和五十年度の野分祭の斎主を中村武彦先生にお願いし、その時の祭文が残っているのは有難い。
この年から野分祭を後援してくれた日本主義青年学生協議会(大場俊賢代表)の提案で、森田烈士のみならず、この月に自決した山口二矢烈士や皇居前で焼身自決した江藤小三郎烈士のことも記憶に留めて、若き戦闘者の道統を継承していきたいとの注意喚起があった。
中村先生の祭文冒頭に、「三島由紀夫大人之命 森田必勝大人之命二柱の御霊並びにその志を同じくして自決し給える先行烈士 山口二矢 江藤小三郎大人之命はじめ維新奉行の御霊諸々を招きまつりて御霊なごめの御祭りを厳修せむと慎み畏み日く」とある。
祭文中の白眉は
「三島文学百巻の書 絢爛として不朽なりと雖も 文豪の名もノーベル賞の栄誉も富も権力も弊履の如く捨て去り 珠玉の生命を自ら一瞬にして断ち給ひし三島由紀夫其人にとりては この一篇三千四百字の檄文に優る作品なく この二首の辞世の歌を措いて 深遠なる精神の奥底を探る術なし
 
益良男がたばさむ大刀の鞘鳴りに幾とせ耐えて今日の初霜
散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐
 
楯の会会員数ある中に 只一人同行をゆるされし森田必勝大人之命 享年二十五才 従容として無限の可能性を孕む若き生命を惜しみなく散らしゆき給いし心情 高く清らかなること譬え様もなけれども 遺書一つ残さず 只辞世の一首 浩然として歌ひて曰く
 
今日にかけてかねて誓ひし我が胸の思ひを知るは野分のみかは
ああ、野分のみかはは 我が胸の思ひを知る同志が必ずゐる筈 数は少なくとも確かにゐてくれる筈と信じ給ひし君の期待と願ひの何ぞ悲しくきびしく切々たるその積年の愛情と胸に秘めたる悲願 今ぞ爆発して天地を圧せる狂霧を吹き払はむとす 野分の風飄々として悲愁の声また峻烈の響あり 昭和元禄の民 幾人かよく武の真男児の悲涙を解し得たる 今なほ君が深き沈黙に秘めたる激しき憤り都祈りは 一黙雷の如く我らの魂を揺り動かして止まざるなり」
――
 祭文が格調高く美文であることが胸を打つのではなく、中村先生が息子にも等しい森田青年の自刃に深い衝撃を受け、烈士の遺志を継承するにはどうすればいいのかを全心身で受け止め、懊悩しておられることがひしひしと伝わってくる故であろう。
 中村先生の祭文は常に神々との誓約、しかも生命を賭けた誓い、祈り、誓願であった。両烈士への祭文も最後の結びは、こう綴られている。
 
「願くば三島森田の精神に生くるが故にこそ 三島森田の屍を乗り越えて戦ふ英知と決断を我らに与へ給へ 願くば此処にむすびあいたる男の おみなの大和心をあはれとみそなはし 左右新旧内外の朝敵賊徒どもを 片端より撃ち砕き 蹴散らす力を与へ給へ 若しご神前の誓に背き、戦いを放棄し 結束を破る者あらば 赦すことなく立ち処に 神罰を下し給へ 若し此の祭りの庭に仕へ奉る諸人達の心に 一点のまことを照覧し給はば 草莽の赤心を九重の空高く通はしめ給ひ 大御心と一つに共鳴りて神州恢復を一日も速やかに成就せしめ給へ
 仰ぎ願くば 御神霊 我らがま心を尽し 生命を賭けて誓ひまつり 乞祈奉る言の由を御心穏に聞召せと 慎み畏み敬ひ曰す」 昭和五十年十一月二十四日
 
「若しご神前の誓に背けば、たちどころに神罰を下し給え」との誓約は、無神論者はいざ知らず、神仏の加護や裁きを信じる者には、かなり厳しい、恐ろしい誓約である。祭典の最中に恐れをなしたのか、退席した者も少なくなかった。
 
 昭和五十一年度の野分祭は中村先生の強い要望があり、斎主(神主)は大野康孝君(当時は会津・伊佐須美神社奉職、現在は熊本県天草・本渡諏訪神社宮司)に奉仕してもらった。大野君は前述の「起ち上がる青年神道人の会」の森田文憲氏の皇学館大学の後輩。学生時代から武勇伝は数知れず、彼を監督指導できる神社は伊佐須美神社の濱田進宮司(後に箱根神社宮司・現名誉宮司)くらいしかいないだろいうという観測通り、会津で修業に励んだ。野村秋介さんを中心に東北各地で講演行脚した「新しい日本をつくる青年集会」で懇親を一層深めていった。(終り)
添付PDFファイルは、「全国各地で憂国忌」と「先輩、一体どうしたんですか」(四宮正貴)の記事(何れも平成26年12月25日号『国民新聞』記事から)
 
 

« 12月「博友会」開催のご案内 | トップページ | 【2月「博友会」】のご案内 »